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大阪高等裁判所 昭和60年(く)104号 決定 1985年8月20日

抗告申立人 被請求人代理人弁護士 下山量平 外一名

被請求人 幡中ひさ美こと烏海愛子

主文

本件即時抗告を棄却する。

理由

本件抗告の趣意は、被請求人代理人下山量平、同正木靖子連名作成の「即時抗告の申立」書面記載のとおりであつて、要するに、(一)検察官は、被請求人が昭和五九年九月一〇日大阪簡易裁判所において、住居侵入・窃盗未遂罪で懲役一〇月、三年間執行猶予の判決を受けたとして、右刑の執行猶予言渡の取消しを請求し、原審はこれを入れて、右取消決定をしたが、右判決が表示する被告人は、本籍姫路市東山七三二番地、氏名幡中ひさ美、生年月日昭和一四年九月九日であつて、右判決の効力が被請求人に及ばないことは、表示説をとる最高裁第三小法廷昭和五〇年五月三〇日決定において明らかであり、また判決の名宛人を被請求人の供述のみによつて、被請求人に変更することは法的安定性を損うものであり、更に、量刑に当り、被請求人のではなく、幡中ひさ美の前科、前歴、生活状況を参酌した右判決の効力を被請求人に及ぼすことは判決に対する信頼性を著しく失墜させるものである。また、(二)右執行猶予となつた事件の捜査及び審理中に、捜査官において指紋照合などをすれば、右幡中ひさ美は、被請求人であり、被請求人には前科があることは容易に知りえたにも拘らず、検察官の不注意によりこれを看過したのであるから、右判決確定後に前刑が「発覚」したということはできない。従つて、刑法二六条三号所定の執行猶予取消の事由に該当しない。更に、(三)刑法二六条三項は、同一の犯罪につき重ねて刑事上の責任を問うものであつて、憲法三九条後段に違反する、以上の次第で、前記被告人幡中ひさ美に対する刑の執行猶予言渡を取消した原決定は取り消されるべきものであるから、これが取消を求めるため本件抗告に及ぶというにある。

よつて、調査するに、一件記録ならびに当裁判所の取寄にかかる被告人幡中ひさ美に対する大阪簡易裁判所昭和五九年(ろ)第四三八号住居侵入、窃盗未遂被告事件の確定記録によれば、次の事実が認められる。

一  被請求人は、昭和五三年六月五日富田林簡易裁判所において、いずれも窃盗罪により、懲役八月及び懲役一〇月の各刑の同時言渡を受けて、右裁判はいずれも同月九日確定し、右懲役一〇月の刑の執行に引続いて、昭和五四年三月一〇日から右懲役八月の刑の執行を受け、同年一一月五日にその刑の執行を受け終つた。

二  その後、被請求人は、昭和五九年六月一六日、窃盗未遂の現行犯人として私人に逮捕され、その直後、大阪府天王寺警察署に引致されたが、その際本名を名乗れば前科の関係から実刑になることは必至であると考えられたため、さきの服役中に知り合い、約一〇年間同居したこともあつて、本籍、生年月日、前科、身上関係等も熟知している知人の幡中ひさ美の氏名を冒用して実刑を免れようと考え、右逮捕の当初から右幡中の氏名を詐称して警察官の取調べを受けたが、被請求人の述べる本籍、生年月日のほか、身上及び前科関係についての供述内容も大阪府警察本部情報管理課(照会センター)からの電話照会回答による幡中ひさ美のものと符合(但し、同回答中には、左右十指の指紋番号についての回答もあつたが、これについては照合せず。)しており、また、住居確認のため、被請求人が居住していると称するアパートヘ警察官を案内させ、警察官においてアパートの管理人から事情を聴取したところ、被請求人の供述どおり、一〇年前から同所に居住していることが確認されたため、取調べに当つた警察官らは被告人の述べる氏名、身上関係等に何ら不審を抱かず、従来から同署における指紋照合の取扱い基準では、重大事件のほか、被疑者が氏名を黙秘する場合あるいは、被疑者の供述が照会回答と食い違う場合にのみ、指紋照合を行うこととしていたので、被請求人の場合には、一応両手の指紋は採取したものの、その要はないとして指紋照合は行われなかつた。(なお、昭和六〇年七月三日、兵庫県警察本部刑事部鑑識課において、右採取にかかる幡中名義の指紋票と、被請求人の指紋票とを対照した結果両者は一致することが確認された。)

そして、昭和五九年六月一八日天王寺警察署から大阪区検察庁に対し、身柄付きで、右幡中ひさ美に対する窃盗未遂被疑事件が送致され、同検察庁においては、同日被請求人を取調べたうえ、翌一九日被請求人が氏名幡中ひさ美であり、その身上関係の調査結果のとおり、「本籍兵庫県姫路市東山七三二番地、住居阿倍野区天王寺町二丁目二三番二四号二階一号室、職業無職、年令昭和一四年九月九日生(四四歳)として、住居侵入、窃盗未遂事件で大阪簡易裁判所に逮捕中求令状起訴した。

三  同簡易裁判所においては、即日被請求人を右幡中ひさ美として、右起訴状記載の住居侵入、窃盗未遂の事実で勾留し、右起訴状謄本は大阪拘置所に在監中の右幡中を称する被請求人に送達された。その後同月二四日右幡中名義で選任された弁護人から同裁判所に対し、保釈請求がなされ、同月二八日同裁判所裁判官により、保釈保証金額を一〇〇万円、制限住居を神戸市中央区熊内町四丁目二の二竹岡むめを方として保釈が許可され、被請求人は翌二九日釈放された。右事件の第一回公判期日召喚状は同年七月六日右制限住居の幡中ひさ美宛に送達され、同年九月三日開廷された右事件第一回公判期日に被請求人は出廷し、裁判官の人定質問に対して、住居を右制限住居である竹岡むめを方と述べたほかは、起訴状記載のとおり答えて所定の審理が進められ、弁護人の請求により情状証人として、被請求人の雇主であり、身柄引受人でもある竹岡むめをの取調べもなされて即日結審し、同月一〇日、被請求人が出廷して開廷された第二回公判期日において、住居侵入、窃盗未遂の事実につき、「被告人を懲役一〇月に処する。この裁判が確定した日から三年間右刑の執行を猶予する」との判決の宣告がなされ、右裁判は、同月二六日確定した。

四  昭和六〇年一月一〇日に至り、被請求人は、別件の住居侵入、窃盗の被疑事実で緊急逮捕され、その際も知人の丸井初子の氏名を詐称していたが、被請求人は右被疑事実を否認しており、その態度及び供述内容に不自然なところがあつたため、不審を抱いた担当警察官が念のため指名手配あるいは余罪の有無を確かめようとして、兵庫県警察センターに照会したところ、丸井初子の異名として、被請求人の氏名が記録されていることが判明し、被請求人から採取した指紋を同県警察本部に送付して照合したところ、被請求人の氏名が確認され、その後の被請求人に対する検察官の取調べの過程において、被請求人は、さきにも知人幡中ひさ美の氏名を詐称して判決を受けたことがある旨供述した(被請求人の検察官に対する昭和六〇年一月一八日付供述調書)ことにより、前記二及び三の各事実ならびに被請求人が他人の氏名を冒用して審理、判決を受けたため、同判決においては、前記一の受刑の事実が看過されたことがそれぞれ判明した。そこで同年五月二四日、神戸地方検察庁検察官から、神戸地方裁判所に対し、前記三の大阪簡易裁判所において言渡された刑の執行猶予言渡取消請求がなされ、同年七月二三日神戸地方裁判所裁判官により右刑の執行猶予取消決定がなされた。

以上の事実に基づき検討するに、先ず、被請求人代理人の所論(一)の点については、原決定中「被請求人の代理人の意見について」の説示のとおり、被告人の特定については、起訴状あるいは判決書の表示のみによつてではなく、公訴を提起した検察官の意思や、現実に審理の過程において被告人として行動し、取扱われた者が誰であるかをも併せ考えて決定すべきであると考えられるところ、前記大阪簡易裁判所で審理、判決された事件においては、起訴状あるいは判決の表示のみからすると、幡中ひさ美に対し公訴が提起され、同人に対し判決があつたかのような外観を呈しているものの、前記認定のとおり、同事件において、現実に逮捕、勾留(その後保釈)され、審理、判決を受けたのは被請求人であることからすれば、右事件の被告人は被請求人以外の何者でもなく、従つて右判決の効力は当然被請求人に及ぶものというべきであり、このことによつて、法的安定性が害されるとは考えられない。(なお、右幡中の氏名を詐称した旨の被告人の供述は、右発覚の端緒であるに過ぎず、右供述のみによつて判決の名宛人を変更するものではない。)所論指摘の最高裁判所第三小法廷昭和五〇年五月三〇日の決定は、非公開の書面審理を原則とし、手続の画一化、明確化の要請の強い略式(右事案では特命)手続に関するもので、事案を異にする本件には適切ではなく、所論は採用することができない。また、右幡中ひさ美名義の判決の効力を被請求人に及ぼすことが判決の信頼性を著しく失墜させる旨の所論は、その趣旨が必ずしも明らかではないが、これが被請求人自身の前科前歴、生活状況を参酌しない右判決の量刑は正当でなく、このような判決の効力を被請求人に及ぼすのは相当でないとの趣旨であるとすれば、原決定も説示するとおり、右事件の量刑において最も重要と思われる犯行の動機、態様、結果等については被請求人の行為そのものが、評価の対象とされており、また生活状況等については被請求人のため情状証人の取調べもなされているほか、前科前歴等について被請求人は、他人の氏名を詐称することにより、本名を名乗るよりもむしろ有利な資料により右判決を得たものであることが窺え、右判決の効力が被請求人に及ぶことが被請求人にとつて特に不利益になるとは認められず、また、これが不相当とも考えられない。右主張は採用の限りではない。

次に、所論(二)の点については、その指摘のとおり、被請求人が昭和五九年六月一六日現行犯人として逮捕された際天王寺警察署において被請求人から指紋を採取していたのであるから、直ちにこれを照合しておれば、被請求人が他人の氏名を冒用していることは容易に判明したであろうが、しかし、前期認定のとおり、被請求人は、かねて前科、身上関係を熟知している知人幡中ひさ美として振舞い、その供述内容は同警察署の照会回答等とも符号(但し指紋番号の点を除く。)しており、また同署警察官において、住居確認のため、被告人に案内させたアパートの管理人も、警察官の事情聴取に対し、被請求人と同旨の回答をしたことから、担当警察官も被請求人の身上につき、何ら不審を抱かず、事案自体もさほど重大でなかつたこともあつて、結局指紋照合をするに至らず、また、起訴後も、被請求人は終始幡中ひさ美として行動し、情状証人らもこれに同調して被請求人の本名を明らかにしなかつたものであつて、右事件の確定記録を調査しても、前期指紋の点を除き、右記録のみからは、被請求人が氏名を詐称していることを窺うべき資料は全く見当らないことなどからすれば、当時、検察官においては、右事件の被告人が氏名を詐称しており、同被告人には、前記一の前科があることは、覚知しうる状態にはなく、右前科の存在は、右執行猶予の判決確定後である前記四の被請求人の検察官に対する供述の時点において「発覚」したものと認めるのが相当であり、しかも、右執行猶予の判決宣告当時、前記前科の懲役八月の刑の執行を終つた日から未だ五年を経過していないものであるから、刑法二六条三号により右執行猶予の言渡を取り消すべき場合に該当するものといわなければならない。この点についての所論も理由がない。

更に、所論(三)の点については、刑法二六条三号の規定は、本来刑の執行猶予の言渡を受ける条件を具備しない欠格者に対し、検察官において、右欠格の事実を覚知せず、従つて裁判所もこれを知らないまま執行猶予が言渡され、その判決確定後にその欠格者であることが発覚した場合、右執行猶予の言渡しを取消すことを定めたものであつて、右執行猶予の取消は、右判決に内在するものとして予定されていたことが現実化したものというべきであり、あくまで処罰は一回であつて、同一の犯罪について重ねて処罰するものではないのであるから、同法条の規定が、憲法三九条後段に違反するとは考えられない。(最高裁判所昭和三三年二月一〇日大法廷決定、同昭和三五年一〇月四日第三小法廷決定参照)。この点についての主張も理由がない。

よつて、本件即時抗告は理由がないので、刑事訴訟法四二六条一項により主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 尾鼻輝次 裁判官 木村幸男 裁判官 近藤道夫)

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